自由と情報
年末から、約3か月少しが経ちましたが、
新顔のウイルス登場で為替も街中も変化が激しく
皆さま少しお疲れではないでしょうか?
私は情報疲れを感じてTVをつけるのをやめ、少し楽になりました。
シリアで起きている難民問題や、紛争エリアの市民の皆様に比べたら
水も飲めるし、屋根のあるところで寝られるし、
弱音を吐いている場合ではないのですが。
焦ってもどうにもならないので、今回のウイルス騒動で考えた
「『自由』と『情報』について」を整理したいと思いました。
JINOが行っていきたい、聞こえの拠り所としての情報発信についても
大いに関係のあることなので、お読みいただいた皆様にも出来ればご自身のお考えを、
コメントなどでご意見としていただけたら嬉しく思います。
<選択の自由があるのは恵まれていること?>
私たちが住んでいる日本では、一応ではありますが
私たち国民が何かを決定する際に、
本人に「選択すること」の自由が与えられています。
(例えば一子相伝の伝統芸術のお家元に生まれてしまえば職業選択の自由が実質与えられないなどの例外もありますが、多くの人にはある、ということで理解しています。)
人の移動の制限や行動範囲の把握の必要性に迫られた場合でも
今のところ(法案と政府次第ですが)その権利を強制的には奪われません。
(出来るようになっちゃいましたね。3/13 16:40分の速報。)
どこに住む・なんの仕事を選ぶ といった大きな選択だけではなく
私たちの毎日は、何時に起きる、何を食べる、何に乗る、聞く、見るといった
選択の連続だと言われています。
スティーブジョブズが、毎日洋服を選択する時間がもったいないという理由で
毎日同じコーディネートで出かけていた、というのも有名な話ですが
私たちは1日に、意識せずにしているものも含め何回「選択」をしているでしょうか。
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