みみの会社のブログ_JINO

耳に関するヒト・モノ・コトについてご紹介するブログです。

同じことを書いてある本を読んだよ、と言われた話 ~目の見えない白鳥さんとアートを見に行く~

<本との出会い>

ブログを随分と書けていないな~と頭の片隅で思っていたものの、

実際に開いて見たら半年経過しておりました。

みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか。

 

先日同じ業界で働く知人から

私が普段よく言っていることとほぼ同じことが書いてある本を読んだよ

という連絡をもらいました。

 

その本は ノンフィクション作家の川内有緒さん著作の

「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」

 

2022年の本屋大賞のノンフィクション本大賞受賞作品。

きっと多くの方が手に取られたと思います。

私は恥ずかしながら知人から連絡をもらって初めて存在を知りました。

 

以前、大阪の国立民族博物館に「しゃべるヒト」の展示を見に行った際に

美術館の中に『触れる展示』スペースがあり

興味深く拝見したことに印象が引っ張られていて、

紹介されて本を手に取った時も、そういうお話かな?という思い込みがありました。

 

視覚障害の方が中心になる本のなかで、

私の言っている事と同じことって何だろう、と謎のドキドキを感じました。

 

ちなみに、その知人からは手に取ってから自分で探して、と言われてしまい

読む前には教えてもらえなかったのです。

著作者の方の紹介文に、「生まれ変わったら冒険家になりたい」が口癖、

という記載があったので、気質は似ていらっしゃるのかな?

などと想像を膨らませ読み進めていきました。

ちなみに私は生まれ変わったら漁港をなわばりにする

野良猫になりたいと常々言っていて、

今世では女性として生まれていなかったら、

旅人になりたかったと真剣に思っています。

(憧れの人はスナフキンです。←大真面目。笑)

 

そんなわけで、普段自分が発信したり誰かと議論したり、

対話の中で話題にするのは聴覚のことも多く、

共通点はまったく想像がつかずページをめくっていきました。

 

<自分の中にある違和感と差別・区別意識を認めること>

本の内容は全体を通して楽しくて、

その場に自分がいたらなんていうかな~とか

自分にはどうやって見えるかなあ~という想像がしやすく

あっという間というのが読後感でした。

 

視覚の異なる立場、著作内では見える人の呼称を「晴眼者」

見えない人の事を「盲者」という言葉でされることが多かったので

ここから、ほんの少し内容を共有する際にも同様の表現を用います。

 

白鳥さんという盲者の方と、晴眼者の著者、著者の知人や家族が

一緒に全国の美術館を訪れ、目の前にある作品を鑑賞していく姿を

時にシリアスに、時に少しもどかしく、

明るい雰囲気で楽しく、紹介されています。

 

くすっとするところも、う~んなるほどと唸る所も

ああ、そういう側面もあるか、と考えてしまうところも。

私が普段、「障害」という概念を無くしたいといって

口にしている話と近しい内容がたくさん出てきました。

 

例えば

■「見る」のは目や視力だけの問題ではなく、脳の問題でもある

→「聞く/聴く」も同じ、耳や聴力は入口で、脳でどう処理するかもとても大切。

 

■文中にあった「どうして『盲人』は「見えるひと」に近づく努力を強いられるのか」

→「聞こえるひと」が社会のいわゆる“一般的な” 基準になっている点も同じ。

 

■「見える人」同士でも解釈や理解がことなることは多い

→「聞く」ことも同じ。感想や解釈が異なるからといって相手が間違っているというわけではないことを忘れがち。

 

■生まれつき「盲者」は「晴眼者」は何もかもが見えていると思っていたりする・

→「ろう者」の中にも聞こえる人は何もかもが聞こえると思っている方がいるし、

「難聴」という状態はすべての音が聞こえないと間違って解釈している人も

山ほどいらっしゃいます。

 

実際のところは、人は見たいものしか見ていないし、

聞きたいものばかりを聞く(意識して必要ないものを聞き逃すこともある)し、

難聴というのは小さい音から聞こえなくなることなので

小さい音が聞こえなくても大きな音なら聞こえる人も沢山いらっしゃる。

 

これらの違和感や自分の中の無意識の区別に、

晴眼者と盲者が一緒に1つの作品を紐解くことで気づいていく、

その過程がこの著書には場面を変えて次々紹介されています。

 

ウィットに富んだ言葉選びで、作品について語り合う

そのトーンがとても読み進めやすいので、

是非一度お手に取られてみては、と思います。

 

<僕らは他の誰にもなれない>

そして核心の、私が良く言っている事と同じことが書いてあった、

と知人が教えてくれたのは、本書313ページから始まる

「僕らは他の誰にもなれない」 章の中にありました。

 

晴眼者がアイマスクをつけて視覚障害を疑似体験する、

というような障害の体験というのが巷でもよくあるのですが

その体験について盲者側の立場として、

『体験が終わった後に「見えるってすごい!」と話しているのを聞くと

ただゲームみたいな感覚でしか体験なんて出来ないんだろうなと感じるし

その体験をして良かった!で上滑りしているのが好ましくない』

という意図の発言があって、

そのことに対して著者は、

『そうやって少しでも共感力を持って理解しようとすること、

寄り添おうとする姿勢を評価しようという視点も考えられないか?』

という立場をとってみたのです。

 

その際に追って受け止められた盲者側の立場としての発言が

「僕らは他の誰にもなれない」でした。

 

晴眼者がアイマスクをして視覚障害を体感して、

日常の自分から見て何かが無い感覚を味わえた。

その事で盲者が日常的に感じたり、直面したりしている問題に寄り添う事が出来る?

知らないよりはいいのかもしれないので、完全に否定はしないが

それだけで、相手の気持ちや状況を想像して共感することが出来てる、

正しい事をしている、みたいになっていることが上滑りして気持ち悪い。

僕らは他の誰にもなれないんだから、

もっと進んでいい加減に、「わああっ」てこの世界で笑いたい。

という言葉が続いていました。

 

著者は腹落ちするのに

少しの過程が必要だった様子を書き綴っていらっしゃいます。

 

この部分、実は私にとっても、

JINOの仕事を始めてからようやく強く思い至るようになった部分だったので

著者の「間が必要な理由」にとても共感できました。

独立してから、いかに自分が考えていたことが浅はかで物足りなかったかと、

反省したことは沢山あるのですが、その中でも1つの大きな視点の広がりを

持てたかなと感じている部分です。

 

分かり合えない事を解る事。

あなたと私は分かり合えない。

だけど、何かを一緒にしたり、何かの時間を共に過ごしたりして

笑い合える空間があれば、作れればそれがいい。

とよく口にするようになっています。

 

どうやったって感覚はその人のものだから

解りたい、理解することで近くにいたい、寄り添って頼られたい

と思っていたエゴを、

解らない、だけど一緒にすごす時間を楽しめれば

笑顔で過ごすことが出来てれば、それでいいんだ、

と思うように変わっていきました。

 

会社の経営者としては言語化が出来きれていなくて駄目駄目なんですが・・・

だれかと一緒に何かを楽しむこと、それは

音楽でも絵画でもスポーツでも詩でも映画でもなんでもいいのです。

 

その時にだれもが他人からの無用な制限を受けず、

自由にその場、その時間を楽しむことが出来るように。

社会の準備が出来ていて、楽しむための選択肢を、

その人が当たり前に自分の意思で選択できるようになっていること。

その場所が、社会が増えていったら。

 

今自分がやっている仕事がその一助になれたらいいな、

それがずっと私が願っている、「障害という概念のない社会」の

具体的な画なのかな、と考えています。

 

自分でこの視点をよく話題にしているつもりはなかったのですが

本を紹介してくれた知人には印象に残っていたそうで、

私と同じように『障害』を捉えている人の存在を教えてくれたこと

素敵な本の存在を教えてくれたことに感謝です。

 

とりとめのない読後感想文になってしまいましたが

気になられた方は是非、読んでみてください!

そして感想など共有いただけたらとても嬉しく思います!

 

お読みいただきありがとうございました!

JINO GOJI